へっぽこびんぼう野郎のnewbie日記

けろけーろ(´・ω・`)!

僕達は驚くほど言葉を知らない

少々難解な本を入手したあと、その本に出てきたよくわからない言葉に線を引きながら読むとありありとするが、

恐ろしいまでに、知らない言葉が顕現してくる。

特に、固有名詞であろうと当たりをつけた言葉に対して我々は、何の躊躇をも必要とせず読み飛ばす傾向があるように思われる。

 

「例えばアタワルパは〜だった」と出てきて、ふ〜ん、アタワルパって人がいたんだな、と読み飛ばすのと、アタワルパとはこういう人だったんだなとわかるのでは、文章に対する理解が大幅に異なってくるし、

キエフ以北では〜だった」と出てきて、ふ〜ん、キエフってところがあるんだな、聞いたことある、と読み飛ばすのと、キエフがどこに位置するのか知っているのとでは、また文章に対する理解が異なってくる筈だ。

 

この文章一つだけならばそれはそれでいい。しかし、もし

キエフ以北ミンスク以南の地域では〜」という文が出現した時に、その位置を知らなければ、文章を正しく理解することは凡そ不可能であろう。

そして、何の知識もない人が、

キエフ以北ミンスク伊南の地域においてアタワルパは戦死したが、そのとき彼はどう思ったであろうか」という滑稽さを理解できるということは、望むべくもない。

 

これはまさに、地理歴史の試験によくある正誤問題だが、もし、3つの言葉を知っていたら、全くノータイムで「いやいや何を言ってるんだ」と一蹴することができる。

2つの言葉を知っていたなら、「何かおかしいぞ」と思うことができるだろうが、

1つの言葉だけならば、「よくわからない」で終わり、

何も知らなければ不思議な呪文のように見えること間違いない。

 

つまり読み飛ばしという技法は、蓋し役に立つものではあるが、それに頼ってわからないままにしておくと、ある瞬間から突然文章の意味がわからなくなる、あまり良くはない技法だと僕は思っている。

 

わからないものをわからないままにしておく姿勢は、不必要というわけではない。そういう見方も、木を見て森を見ずにならないようにするためには須要なものでもある。

 

しかし、木がわかるものならばわかってしまったほうが格段にお得である。

なぜなら、森の構成要素は木であり、森は木の抽象概念で、逆に木は森の具体概念という点から、森を理解するのに役立つからだ。

そうして、「曖昧に理解している言葉」や「全然知らない言葉」を知るようにしていくことが緊要であると思う。

 

ということは、何が書いてあるかわからない、何を言っているのかわからないのは、言葉を知らないからなんじゃないかと僕は思った。

もちろん、話者の説明下手もしくは、話者が当然聞き手はこれくらいは理解できるだろうと無意識のうちに排除する前提によるものもあるだろうが、

それも、自分の語彙によってカバーすることができるはずだ。

 

よく、「本当にアタマノイイ人は、バカでもわかるように説明できる」と言われるが、

それは単に、ようやく理解できたバカがわかりやすい説明をしてきた頭のいい人を尊敬して言うべき発言であって、全く事実は異なり、

それを曲解して、これを「私が理解できないのは、あなたの説明が悪いから」と貶す言葉へと転化すべきものではない。

 

例えば、リーマン予想の趣旨を、幼稚園児にもわかるように明確に説明せよ、というようなことは、はっきり言って不可能である。

 

在る概念を知るためには、僕達は絶対的にそれを構築する元となる概念を理解することが不可欠だ。

従って、概念を言の葉に落とし込んだ言葉の意味を正しく理解することは、非常に肝要なことで、僕はそれをすることで、世界が拓けてくると信じている。