へっぽこびんぼう野郎のnewbie日記

けろけーろ(´・ω・`)!

ぼくがかんがえたさいきょうの文章の読み方

文章を読むのは難しい。
(中略)
最近ぼくがやっている
文章に当たる前や、当たっているときの考え方を紹介しようと思う。
取り入れてくれてもその逆でもどっちでもいい。

この世の全てを知っている人はいない。

本やブログやニュース記事を見ていると、「これはこういうものだよ〜」なんて書いてあることがあるけれど、それは実は本当は違うかもしれない。
どんなに偉いひとが書いていても、それは実は本当は違うかもしれない。
偉いひと・すごいひと・ばかなひと、誰が書いていても、それらが100%正しいとか100%間違っているとか、そういうことはめったにない。

言葉の意味はとても大切。

文章を読んでいると、なんとな〜くわかる感じの意味の言葉があって、つい読み流しがちになってしまうけど、それって実はその物事の根幹を成しているかもしれない。
その言葉は、実は自分が知っている言葉の使われ方ではないのかもしれない。
その言葉は、自分は正しく使えているけれど、相手が間違って使っているかもしれない。

わからないこともあるし、わからなくても死ぬほど悩むことはない。

文章を読んでいると「よくわからない!」ということにぶちあたるときがあるけれど、それってよくあることだ。
というかぼくにとっては、わからないことがふつう。

最後まで読む。

よくわからなくても最後まで読むというのは重要。
「読んだ」感が味わえる。
それに、別の場面で「あ、これってこういうことだったのかァ」となるときがたまにある。たまに。

役に立つかどうかなんてどうでもいい。

それを読むことで人生どう変わるのかなんて誰にもわからない。
ひょっとしたら無駄かもしれない。
でも無駄じゃないかもしれない。

基礎はとても大事。

言い古されていることだけど、とても大事。
基礎がおろそかになりやすいのは、それが応用と比べて膨大だからだ。
ぼくがよくわからないときは大体基礎を間違って習得している。
基礎には固定観念も含まれる。

わからないときは大体あたらしい概念だ。

あたらしい概念だ。

記憶力はとっても必要。

「あれ、さっきのってなんだっけ」っていうのは振り返る時間がもったいない。
「あれ、この前のってなんだっけ」っていうのは振り返る人生がもったいない。
すべてを必死に覚える必要はないけれど、すべてを覚えようと意識はするべきかもしれない。

読む本の分野はなんでもいい。

偏るのはしかたないし、だめなわけではないけど、色々読んでみた方がいい。
「別に興味ないけどがんばって読んでみた」でいい。
むしろ興味ない分野から得た知識がブレークスルーになりやすい。

みんな簡単なことを難しく言いたがる。

自分が苦労して得た知識を、軽いノリで手に入れられるというのは、結構いやなことだ。
だから書く人は、その知識をなるべく難しく書こうとする。
これは別に悪気があってしているわけではない。
「前提知識がわかっていればその方がわかりやすい」とか「ちゃんとした説明をしたい」とか
「実は書いた人もよくわかっていない」とか
まぁいろいろな組み合わせによってそうなる。
難しそうにみえて、実際は難しくないこともある。

難しいことは大体「これがこうなってこれはこうなってこれはこうでこれとこれがこんなんだからこれはこうでこれがこうだからこう」みたいなやつだ。

いわゆる複雑系である。
こういう概念って、いくらかの集まりに分解してセマンティックス(意図)を与えて理解することも可能だけど、
「あ〜なんでこうなっているのかっていうのは、『これがこうなってこれはこうなってこれはこうでこれとこれがこんなんだからこれはこうでこれがこうだからこう』だからなんだねー」とそのまんま理解することも可能である。

しらべる。

わからないことのうち、調べればすぐわかることは調べて解決するべきだ。
どんなに忙しくても今調べると「調べるタスク」が減る。

絶対こうだという確証を持たない。

「絶対こうだ」「絶対こうに違いない」「絶対これはありえない」は危険だ。ものごとに100%はない。
『ぼくは人間である』というありふれた事実でさえ99.999999999%くらいしか正しくないかもしれない。
絶対は世界を狭くする。
実数空間の絶対値が0以上の実数空間になるように。

事実と意見と推論は違う。

「彼は数学で2点をとった」は事実である。
「彼はバカだ」は意見である。
「彼は物理でも10点以下になるだろう」は推論である。
これを結合して「彼は数学で2点をとるほどのバカだから、物理でも10点以下だろう」という文章を作ることができるが、
実は彼が数学で2点をとったのはその日単にやる気がなかったからで、
物理では100点を取るかもしれない。
ぼくたちはそれらの違いをしっかり把握して、深く洞察しなければいけない。
世の中には自分の推測した意見をあたかも普遍的な事実のように語る人が大勢いる。

あたりまえのことはすごくすごく重要だ。

もし王道があるとするならばそれはあたりまえのことの連続だと思う。
もちろんショートカットも稀にあるけれど。

やってりゃいいってもんじゃないし、継続するだけでは甘い。

がむしゃらに走ればいいってもんではない。
それは逆方向かもしれないし、45度ずれているかもしれない。
頭でちゃんと考えて、間違えていれば方向修正をするべきだ。

他人の意見は、他人の意見の範疇を出ない。

他人の意見は、所詮その人の人生の中から得られた意見である。
それは聞く価値があるかもしれないしないかもしれない。
自分の人生には全く不必要なものかもしれない。
切り捨てる必要はなくて、『そういう意見もあるんだな』と持っておけばいいと思うが、
最終的に意思を決定するのは自分である。
より正確に言えば、決定とは、自分の中にある膨大な数の細胞たちが何らかの化学反応を起こしているだけだけど。

英語の本でも気にせず読もう。

英語の文章って、所詮日本語が英語になっただけの文章だ。
それはとてもきついかもしれないけれど、日本語だけの世界よりも価値観が広がるかもしれない。
もちろん英語に限らない。




こんなかんじかな。

文章の読み方じゃなくなっているとこもある気がするけど気にしないし気にしないで。

どうでもいいけど今日好きだった人の誕生日だ。

すげーはらへった。